潔癖であった
汚いなものには触れていたくない
嫌いなものがある場所には居たくない

潔白でいたかった
何に関しても自分だけは潔白でいたかった

それが自分の醜さであるという事実にすらも気付かないふりをする
そんな弱さ
本当は知っているから、自分を過小評価しがちなのだろう
自分の発言に、自分の行動に、自分の思想に、自分自身に、自信を持てないのだろう

自分じゃない誰かを演じる事が私の処世術だった
するといつの間にか『自分』が何処かに追いやられてしまっていた
そんな在り来たりな話

ユーモラスに色んな事を放出出来たら、「暗い人間」というレッテルを貼られる事もなかったろう、なんて思ったりもする
けど本質はどうなのだろう?
小学校までは明るくて活発だった記憶しかないからこそ、今の自分に違和感を感じる
客観が充分に伴っていなかった時期だったからそう思い込んでいるだけで、実際は今と同様だった事も考えられる
しかし、国語の授業で音読する時に恥ずかしさからか、声が小さくて先生に注意されてしまう女子を見ては「何がそんなに恥ずかしいのだろう?」と不思議に思っていた事もあった

いつの間にか今現在の自分が形成されていた
性善説と性悪説、自分は性善説を唱える
何故なら今の自分は明らかに小学校の頃の自分と比べたら、周りに毒されてこうなったと感じているから
だから汚いものに、嫌いなものに触れたくなかったんだ
無垢でいたかった
けれどそれは世間知らずという事でもあり、大人に怒られるのが嫌で仕方がなかった自分は、世間知らずでいるのは嫌だと感じていた
そんな中途半端な状態で年を重ね、この世に生まれてから今年で25年の月日が経とうとしている

昨日、10歳頃にNYの補習校で出会った友人、16歳の頃に高校で出会った友人と三人で会った
会話する中で彼らの成長に驚いたものであった
自分はきっと外の世界と触れるのが怖かった
だから意図的に連絡不精を演じ、出不精を演じ、自分を殻に閉じ込められる条件、外に出なくて良い条件を揃えていったのではないだろうか


日本に住んでいた9歳の頃、当時小学三年生だった自分は、
「自分が教室で授業を受けている昼間から外を歩いている人達は何をしているんだろう。いいなあ、ああなりたい。」と思った
実際今自分はそうなっている
夢が叶ったという事ではないか
うん、喜ばしい事だ
きっと当時の私(9歳/小学三年生)が今の自分(24歳/大学三年生)の姿を見てもきっと喜んでくれるはず
(残念ながら今日は日曜日。もし今日が平日だったなら、今こうやってベッドの上でノートパソコンに向かっている自分を見てより喜んでくれただろうに)

自分に出来る事、自然とやっている所作を、其の儘やっていればまた『自分』に出会えるんじゃないかな
いつかはどの時代の『自分』ともリンクし、いつの時代の『自分』とも笑って会話が出来る様になれたらいいな
とりあえず、もう目を覚ましてから1時間以上はだらだらとベッドの上で過ごしているのだから、そろそろ起きないとな